「人類史のなかのアーリア人とは」

人間の歴史、特に有史以来の人の振る舞いを見ると、なんといっても紀元前2000年から1200年にかけてコーカサス山脈北方(黒海とカスピ海の間)の草原地帯に住んでいたアーリア族の移動が大きな事件だった。移動を始めたのは、寒冷化、食糧不足などが原因とされているが、いずれにしても、アーリア人はペルシャ、トルコ、イランなどの中東地域、ギリシャ、ローマ、カルタゴなどの地中海国家、フランス、スペイン、ルーマニア、ドイツ、イギリス、フィンランドなどのヨーロッパ、ロシアのスラブ民族、中央アジアの諸民族、そしてインド人になったのだから、小さな地域から世界の半分ぐらいに移動して繁栄したと言える。

宗教も同じで、おそらく紀元前1000年ぐらいにアーリア人の中に「原始的宗教」があり、それが紀元前600年ぐらいに西からギリシャ神話、ユダヤ教、ゾロアスター教、そして仏教を生み、さらに後世にキリスト教、イスラム教に発展したので、世界のほとんどの宗教はアーリア系であることが分かる。
アーリア人の第一次(紀元前1500年前後400年)の移動後の彼らの歴史を見ると、1)肌が白く、2)背が高く、3)鼻筋がとおり、4)他の民族は自分たちより下位と信じていて、5)他人のものは自分のものという確信がある、ということでまとめることができる。

まず最初は、アーリア人がイラン、トルコ、ギリシャなどに侵入していくとき、「ドケドケ!」という感じで、自分たちが新しく侵入していくところにそれまで住んでいた人は皆殺しにしても別に良心の呵責など感じなかった。もともとギリシャあたりに住んでいた人は北から来たアーリア人に押し出されて地中海に逃げた。

インドでは新しく侵入してきたアーリア人が「肌の白いのが最上級」というカースト制を作り出し、支配を固定し、最上級の中からお釈迦様も生まれた。
なにしろ「他人のものは自分のもの」、「自分が正しいと思っていることは正しい」という厄介な信念を持っているので、戦争にはなるし、思想も強制してくる。ギリシャのポリスも戦いに戦いを続けたし、有名なマケドニアのアレキサンダー大王とペルシャのダレイオス大王のイッソスの戦いにしても、所詮、アーリア人同士の内輪もめである。

マケドニアがヨーロッパ、ペルシャが中東なのでなんとなくヨーロッパとアジアの戦いのように見えるが単なる内輪揉めで、それはローマとカルタゴの戦いも同じだ。

アーリア人の中にときどき、アレキサンダー、ハンニバル、シーザー、ピュートル大帝、ナポレオン、ヒットラーなどのように「他人の土地を多くとった人」を「大盗賊」と呼ばずに「英雄」と呼ぶ。これこそアーリア人の真髄なのである。

(宗教)

アーリア人の活動を大きな目で見てみると、紀元前2000年に一度、移動をして、その800年後の紀元前1200年に第二次の大移動をする。それから200年後に各地に有力な宗教を作り出す。ギリシャ神話、ユダヤ教、ゾロアスター教、そしてバラモン教(後のヒンデュー教)と仏教である。いずれもこれらの宗教は紀元前1000年から600年ぐらいの間にできて、いずれも同じ宗教から出ている宗派である。

その後、紀元ゼロ年にはキリスト教、600年にはイスラム教ができて、世界は仏教、キリスト教、イスラム教、そしてヒンデュー教でほぼ示されるようになる。現在、ヨーロッパの思想で「宗教の自由」と言っているのは、日本語に訳せば「宗派の自由」である。
アーリア人が作り出した宗教は、主としてその目的が「アーリア人の支配」にあるか、後に侵略と支配の道具として使われた。そしてあまりに宗教が強力だったために、アーリア人自体の精神も締め付けることになって、紀元前800年から紀元後1200年ぐらいまでの2000年間、アーリア人の活動は主として宗教的活動に制限されていた。

つまりアーリア人は自らあまりに強力な宗教を複数作ったので、その軛で苦しんだということで、その中には十字軍とイスラムの戦いがあるが、これも同一宗教内の宗派の対立でもあった。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地がいずれもエルサレムなのでややこしいというけれど、それは同一宗教だからある意味では当然でもある。

(文化)

紀元1200年になると徐々に精神活動が盛んになり、15世紀にはダ・ヴィンチが現れて本格的なルネッサンス時代になる。でも、ルネッサンスだけなら学問や芸術が盛んになるので良いことだが、精神が高揚したアーリア人は再び2500年前の「侵略の精神」を思い起こし、「大航海時代」と称する「大侵略」を開始した。

ここでむつかしいことが生じる。日本の歴史学はヨーロッパのものなので、用語までヨーロッパを正当化し、歴史を曲がって伝えるようになっている。その典型的なものが「アメリカ大陸発見」、「アメリカン・インディアン」などだ。

言葉というものは恐ろしいもので、もともとその地に住んでいる人たちをヨーロッパ人は「原住民」と読んだ。原住民と呼ぶとそれは「未開で野蛮な人たち」というニュアンスあり、その結果、「殺しても問題はない」ということになる。また「原住民の女は自由に犯しても良い」というお触れも、「従軍慰安婦」より「良いこと」という評価になる。人間の持つ差別意識を巧みに利用している。

イギリスがインドを植民地にするときに学者を動員して「インド人がいかに劣る民族か」を明らかにしておくという準備をする。この試みは意外にもイギリス人とインド人のルーツが同じことが分かって失敗するが、アーリア人の侵略は文化も動員した用意周到のものであることも日本人は知る必要がある。

(軍事、産業)

そして最後に彼らは「力」を準備する。それが軍事技術、産業力である。彼らは戦争が好きで、戦争で勝つためには武器を磨き、産業を盛んにする必要があるので、絶え間ないアーリア人同士の戦闘で他の民族より格段に強い力を得ていた。このことはなにかの機会に整理したいと思う。
いずれにしても、15世紀には「宗教、文化、軍事、産業」のあらゆる点でアーリア人が爆発的に世界に進出する条件が整ったのである。