
ともに医師の両親は25年もの間、統合失調症の疑いがある姉に治療を受けさせませんでした。「失敗が繰り返されないように」。弟は20年以上にわたる家族の記録映像をドキュメンタリー映画にまとめました。
統合失調症の姉との40年 今も自問「どうすればよかったか?」
https://mainichi.jp/articles/20250401/k00/00m/040/096000c…

面倒見が良く、優しかった姉が夜中に突然大声を上げたのは、24歳の時だった。理解できない内容を約30分叫び続け、病院に搬送された。
しかし、1晩入院したきり、通院する様子はなかった。父は家族に「精神科医が全く問題ないと診断した」と説明した。Advertisement
ともに医師の両親は25年もの間、統合失調症の疑いがある姉に治療を受けさせなかった。南京錠で玄関ドアを厳重に施錠し、姉を家に閉じ込めたことさえあった。
「失敗が繰り返されないように」。弟は20年以上にわたる家族の記録映像をドキュメンタリー映画にまとめた。タイトルは「どうすればよかったか?」だ。
20年後に判明した「うそ」

映画監督の藤野知明さん(58)は札幌市出身。両親、姉と暮らしていた生活は、高校2年だった1983年に一変した。
8歳上で大学の医学部生だった姉「まこちゃん」が夜間に行動するようになった。自室で発する大声や物音が気になり、藤野さんは午前5時や6時まで眠れない日々が続いた。
両親は「勉強ばかりさせた私たちに復讐(ふくしゅう)するため、統合失調症のように振る舞っている」と話したが、信じられる話ではなかった。

両親はその後も、表面上は「精神疾患ではない」という考えを貫いていく。そうした診断自体がなかったことが判明するのは、約20年後のことだ。
両親の説明とは異なり、姉は実際は統合失調症だった。感情や考えをうまくまとめられなくなり、幻覚や幻聴、妄想、認知機能の低下といった症状が出る精神疾患で、100人に1人ほどが発症するとされる身近な病気だ。
詳しい発症原因は明らかになっていないが、薬物療法などで症状の緩和が期待でき、早期発見が肝要とされる。

「姉を医療から遠ざける選択は理解できず、(両親と)延々と口論してきた」と振り返る藤野さん自身も精神的に追い込まれていった。
大学時代、家庭の混乱から成績が悪く、心配した教員に事情を問われたことがあった。姉の話をしたところ「姉さんが精神(疾患)ならお前もか」と心ない言葉が返ってきたという。
約10年たっても好転しない状況は気がかりだったが、大学卒業後に就職のために北海道を離れた。
閉じ込められた姉
会社員を経て、95年に日本映画学校(現日本映画大学)に入学。卒業後の2001年から、帰省の度に家族の様子を映像に収めるようになった。

姉の状態は良くならなかった。以前は藤野さんの問いかけに対し、ほほ笑んで応答することもあったが、あいさつすら返ってこなくなった。
大学ノートに医学的と思われる記述や、趣味の占いに関する内容を黙々と書くこともあれば、支離滅裂な言葉を発し、声を荒らげることもあった。
姉と両親が外出することは次第になくなり、家に引きこもるようになっていった。
05年、藤野さんは実家の玄関から入れず、母から「裏口に回って」と言われた。姉の徘徊(はいかい)を防ぐため、玄関ドアのチェーンロックをさらに南京錠で施錠していた。

その場で取り外させたが、実家を離れると再び両親が南京錠を取り付ける。らちが明かず、藤野さんは後にチェーンロックを壊した。
かつて精神疾患のある人たちを自宅の部屋などに閉じ込め、戦後の50年に禁止された「私宅監置」が頭をよぎった。
母の認知症を機に…
警察の介入なども選択肢だったかもしれないが、強い対応はあえて避けた。家族の関係が崩れかねない手法は姉が望まないと考え、ひたすらに医療へつなぐことを目指した。
母に認知症とみられる症状が出始めたことを機に、08年に姉と病院に行くことを父に提案した。
医学の道を志していた姉は、医師である父を「崇拝に近い」ほど尊敬していた。その父が言えば、姉は不承不承でも病院に行くのではないかと以前から考えていた。
父は提案を受け入れた。家庭の状況が切迫したことで、事態が動いた。

診断名は統合失調症。発症したとみられる日から、既に25年が経過していた。
診断後、入院した姉の症状は明らかに改善されていった。薬物療法の成果もあり、意思の疎通や会話が徐々にできるようになった。
それまでの25年に対し、入院期間はわずか3カ月。自宅に戻った姉は少しずつ日常を取り戻し、料理や散歩、買い物などを藤野さんや父と楽しむようになった。表情や口調も穏やかになった。
姉の死後、編集を開始
映像は元々、藤野さんが「将来的に姉を精神科医にみてもらう時のために」と撮り始めたもので、作品化するつもりがあったわけではない。

だが、21年に姉が肺がんのため62歳で亡くなると、映像の編集に取りかかった。世に投げかけるべきことだと考えたからだ。
1時間41分の作品からは、約40年に及んだ一家の混乱や苦悩が伝わってくる。24年12月の公開から1カ月半で興行収入1億円を突破した。ミニシアターで公開されるドキュメンタリーでは異例のヒットだ。
藤野さんは「我が家は間違いなく失敗例」と断言する。作品を見ると、藤野家が取るべきだったと考えられる対応が頭をよぎる。
「周囲が受け入れることから」
だが、事はそう単純ではない。藤野さんはタイトルの通り、今も自問を続けている。

だからこそ、作品では姉の発症理由の究明や統合失調症の説明を目的とはしなかった。
「(映画の)中心にあったのは姉ではなく、両親と私。受け入れがたい事実であっても、周囲が受け入れることからしか物事の解決にはたどり着けない」。根底にはそんな思いがある。
研究職の医師である両親は姉を早期に医療に結びつけなかった。藤野さんは「自分たちが治し、以前の生活に戻すと判断したのかもしれないが、それができないのを認められず、ずるずるといってしまった気がする」と今は考えている。
母、姉に続き、作品公開から間もない24年12月に父は病死し、両親の真意は想像するしかできなくなった。
藤野さんは姉に思いをはせ、こう語る。
「姉は善良で楽しい人だったが、あまりに大きなものを、未来を失った。人為的な原因もかなりある。当事者が何を感じているのか、何ができるのかを考えることが、大切なのだと思う」
回復しないケースも

どうすればよかったか。
作品を鑑賞した精神科医の星野概念さんは「受診や通院をして相談するとか、外部に話をしてみる方法はあった」と指摘した。
一方で、全ての当事者や家族を巡る状況が、通院や治療によって好転するわけではない点も強調する。

「誰もがお姉さんのように回復するわけではない。映画を通じ(精神疾患の人を)治療につなげることや、医者に診てもらうことがいいといった、スティグマ(偏見)的な目線を持つのは危険」。誰にでも当てはまる統合失調症の治療法が確立されていないためだ。
家族らの判断で患者が同意しないまま入院しても、思うように回復しないケースは珍しくない。当事者が社会から隔絶される恐れもある。
そのため、星野さんは「当事者の話を聞こうとし、考え続けること」と粘り強く寄り添う姿勢の大切さを説いた。
この時、サポートが必要になるのは家族も同様だ。
社会の合意形成を
藤野さん自身も若い頃は誰にも相談できず、孤立していた。
姉の症状を打ち明けた大学時代の教員とのやり取りに触れ、「重い言葉だった。そういう反応をされると他者に相談しづらくなり、自分の周りだけベールがかかっている感覚になる。友人と笑い合っていても、自分だけ別の世界に置かれているような」と明かす。
当事者家族を支え、孤立を防ぐには、社会の精神疾患に対する理解の深まりは欠かせない。姉が発症したとみられる当時は今以上に、偏見が強かった。
両親が姉のことを第三者に相談した形跡はなく、藤野さんは「当時は病院に行くことが人生の終わりみたいな扱い。未来のための入り口と捉えられていなかった」と社会情勢も背景にあったと推し量る。

インターネットの普及により、藤野さんは00年ごろに統合失調症の家族会のメーリングリストに登録し、匿名で相談できるようになった。姉を最初に診察した精神科医も探し当て、多くの助言を受けられた。
映画公開後、藤野さんは劇場で出会った高齢者から統合失調症の家族について相談を受けた。対応に苦慮している様子で、今も頭を悩ませる人たちがいることを実感したという。
だからこそ、「家族の話を聞いてくれる人や場所、機関は大事だ」と力を込める。当事者と家族の周囲が病状を理解し、耳を傾け、寄り添うことは「失敗」を防ぐ一助になりうる。
「統合失調症は原因が分かっていない。原因が分かっていないものを家族や当事者が恥じ入ったり、隠したりする必要はない。社会にそういった合意形成ができれば、問題を解決する方法に少しは近づける」
藤野さんはそう信じている。【谷口拓未】