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早稲田大学を中退したタモリさんは、故郷・福岡でさまざまな仕事を転々としていました。保険外交員、喫茶店のマスター、ガードマン、ヌードモデル、果てはヘビ使いやヒモのような生活まで…。社会のレールから外れ、“変な人”として過ごしていた彼は、30歳を前に「このままでいいのか」と自問するようになります。
そして運命の夜、知人と飲んだ帰り道、ホテルの一室から聞こえてきた賑やかな笑い声。ふと扉を開けると、そこは虚無僧姿で騒ぐ即興芸の真っ最中。見た瞬間、「これは俺を呼んでいる!」と確信し、ゴミ箱をかぶって乱入。その場の一人が冗談で放った“インチキ中国語”に、タモリさんが完璧な“さらにインチキな中国語”で返し、爆笑が起きました。
その場にいたのは、ジャズピアニスト・山下洋輔と仲間たち。一夜の出会いでしたが、彼らの中に強烈な印象が刻まれ、「博多にすごい奴がいる」という噂と共に“森田探し”が始まります。手がかりは「ジャズ好きの森田」という名前だけ。博多のジャズ喫茶に通う常連をたどり、ついに“幻の素人芸人”タモリを発見。
山下たちの尽力でタモリは上京。“都落ち”して以来7年ぶりの東京は、仲間の都営住宅への居候から始まり、やがては赤塚不二夫の自宅へ。そこは4LDKの高級マンション、ベンツ乗り放題、月20万円の小遣いまで支給という破格の待遇。一方、赤塚先生は自分の事務所のロッカーで寝ていたというから、その懐の深さもまた伝説です。
「気づいたときは、グッときたけど、それを見せるのは“居候道”に反すると思った」
――タモリはそう語ります。
あの夜、何気なく開けた一つの扉。それが“人生の扉”だった。
芸人でもなく、俳優でも司会でもなかった“タモリ”というジャンル。
その原石が、いまや日本のお昼を30年以上照らし続けた。
人生は何気ない瞬間にこそ、最大の転機が潜んでいる。
タモリというダイヤモンドが輝き出したのは、ひとつの「好奇心」から始まったのです。





