穴澤 利夫(あなざわ としお) 大尉

資料名:遺書・手紙類 (恋人へ)

穴澤 利夫(あなざわ としお) 大尉

穴澤 利夫(あなざわ としお) 大尉

79年前の今日。1945年4月12日,知覧飛行場にて。特攻に向かう穴澤利夫少尉の「隼」を見送る知覧高等女学校の生徒たち。ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。

資料写真

資料情報

資料型式遺書・手紙類備考婚約者の智恵子さんは,穴澤大尉が戦死された4日後(4月16日)にこの手紙を受け取りました。
数量4枚
媒体紙,ペン
サイズ(cm)20×13
作成年代1945年

関係する特攻隊員情報

名前<性別>穴澤 利夫(あなざわ としお)<男>戦死後の階級大尉
年齢23歳出撃基地知覧
出身地福島県喜多方市飛行機一式戦闘機「隼」(中島)
出身学校中央大学部隊名第20振武隊
戦死年月日1945(昭和20)年4月12日出身期別特操1期
備考穴澤大尉には,大学時代に将来を約束した智恵子さんという婚約者がいました。彼は出撃前に,智恵子さんからマフラーを贈られました。「神聖な帽子や剣にはなりたくないが,替われるものならあの白いマフラーのように,いつも離れられない存在になりたい」という彼女の一途な思いに応え,彼はそのマフラーを彼女の身代わりとして,首に巻いて出撃しました。

内容

二人で力を合わせて努めて来たが,終(つい)に実を結ばずに終った。 希望を持ち乍(なが)らも,心の一隅(ひとすみ)であんなにも恐れていた“時期を失する”と言ふ(う)ことが実現して了(しま)ったのである。

去月(きょげつ)十日(とおか),楽しみの日を胸に描き乍(なが)ら,池袋の駅で別れてあったのだが,帰隊直後,我が隊を直接取り巻く状況は急転した。発信は当分禁止された。(勿論(もちろん)今は解除) 転々(てんてん)と処(ところ)を変へ(え)つつ多忙の毎日を送った。そして今,晴れの出撃の日を迎へ(え)たのである。便りを書き度(た)い。書くことはうんとある。

然(しか)しそのどれもが今までのあなたの厚情(こうじょう)にお礼を言ふ(う)言葉以外の何物でもないことを知る。あなたの御両親様,兄様,姉様,妹様,弟様,みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さった御親切,全く月並(つきなみ)のお礼の言葉では済みきれぬけれど「ありがたふ御座いました(ありがとうございました)」と,最後の純一(じゅんいつ)なる心底(しんそこ)から言って置きます。

今は徒(いたずら)に過去に於(お)ける長い交際のあとをたどり度(た)くない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与へ(え)て進ませて呉(く)れることと信ずる。然(しか)し,それとは別個に婚約をしてあった男性として,散って行く男子として,女性であるあなたに少し言って征(ゆ)き度(た)い。

「あなたの幸せを希ふ(ねがう)以外に何物もない」

「徒(いたずら)に過去の小義(しょうぎ)に拘(こだわ)る勿(なか)れ。あなたは過去に生きるのではない

「勇気を持って,過去を忘れ,将来に新活面(しんかつめん)を見出すこと」

「あなたは,今後の一時(いっとき)一時(いっとき)の現実の中に生きるのだ。穴澤は現実の世界には,もう存在しない」

極(きわ)めて抽象的(ちゅうしょうてき)に流れたかもしれぬが,将来生起(せいき)する具体的な場面々々(ばめんばめん)に

活(い)かして呉(く)れる様(よう),自分勝手な,一方的な言葉ではない積(つも)りである。

純客観的(じゅんきゃっかんてき)な立場に立って言ふ(う)のである。当地(とうち)は既(すで)に桜も散り果てた。

大好きな嫩葉(わかば)の候(こう)が此処(ここ)へは直(じき)きに訪れることだらふ(う)。

今更何を言ふ(う)か,と自分でも考へ(え)るが,ちょっぴり慾(よく)を言って見たい。

●読み度い本(よみたいほん)

「万葉(まんよう)」「句集(くしゅう)」「道程(どうてい)」「一点鐘(いってんしょう)」「故郷(ふるさと)」

●観たい画(みたいが)

ラファエル「聖母子像(せいぼしぞう)」 芳崖(ほうがい)「悲母観音(ひぼかんのん)」

●智恵子(ちえこ) 会ひ度い(あいたい),話し度い(はなしたい),無性に(むしょうに)。

今後は明るく朗(ほが)らかに。自分も負けずに,朗(ほが)らかに笑って征(ゆ)く。

利夫(としお)

智恵子様(ちえこさま)

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特攻隊員の遺書「会いたい、話したい」

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荒川和久/独身研究家・コラムニスト

荒川和久/独身研究家・コラムニスト

2019年8月14日 21:51

太平洋戦争の末期、日本には特攻という愚かな戦術がありました。戦闘機に爆弾積んで飛行機もろとも敵艦に突っ込むアレです。

撃墜王として有名な坂井三郎少尉は、特攻作戦を明確に愚策と断じて批判しており、後にこう述懐しています。

「特攻で士気があがったと大本営は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」

当たり前です。特攻に対しては、ほとんどのパイロットたちがあんな作戦、「あり得ない愚策」と思っていた。

ちなみに、戦争中の軍隊なんて「命令は絶対」だと思っていませんか?「命令違反なんてとんでもない」と。特に、映画で描かれる日本軍はそういうイメージだと思います。勿論、軍の命令に従わないことは重罪に当たります。

しかし、そんな中にあっても、特攻命令を拒否し続けたパイロットたちもたくさんいます。

それについてはこちらに書きましたので、ご興味あればご覧ください。

https://note.com/embed/notes/nd38e73a65c0a

とはいえ、それでも無念にも特攻で散った多くの命があったこともまた事実。日本で最初の特攻攻撃で散った関行男大尉が、特攻の命令を受けて基地の報道班にもらした言葉。

「僕には体当たりしなくても敵空母に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。日本もおしまいだよ、僕のような優秀なパイロットを殺すなんてね。僕は天皇陛下のためとか日本帝国のためとかで行くんじゃないよ。KA(妻)を護るために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう!」

画像1

偽らざる彼の本音だろうし、さぞ無念だったことでしょう。悔しかったことでしょう。

そして、そんな技量も経験もなく、ひたすら忠実に軍の命令に従って(本心は違うはずだが)特攻で死んでいった若者たちもたくさんいます。

以下は、昭和20年4月12日に出撃して帰らぬ人となった第20振武隊穴澤利夫大尉(23歳)の遺書です。年齢と階級によってもわかるように穴澤大尉は学徒出陣組です。

画像2

遺書は、彼の婚約者である智恵子さん宛てに書かれたもの。全文ではなく一部抜粋してご紹介します。

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二人で力を合わせて努めて来たが,ついに実を結ばずに終った。 希望を持ちながらも,心の一隅であんなにも恐れていた“時期を失する”と言うことが実現してしまったのである。

去月十日,楽しみの日を胸に描きながら,池袋の駅で別れてあったのだが,帰隊直後,我が隊を直接取り巻く状況は急転した。そして今,晴れの出撃の日を迎えたのである。

便りを書きたい。書くことはうんとある。

然しそのどれもが今までのあなたの厚情にお礼を言う言葉以外の何物でもないことを知る。あなたの御両親様,兄様,姉様,妹様,弟様,みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さった御親切,全く月並のお礼の言葉では済みきれぬけれど「ありがたふ御座いました」と,最後の純一なる心底から言って置きます。

今は徒に過去における長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれることと信ずる。然し,それとは別個に婚約をしてあった男性として,散って行く男子として,女性であるあなたに少し言って征きたい。

「あなたの幸せを希ふ以外に何物もない」

「徒に過去の小義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない」

「勇気を持って,過去を忘れ,将来に新活面を見出すこと」

「あなたは,今後の一時一時の現実の中に生きるのだ。穴澤は現実の世界には,もう存在しない」

極めて抽象的に流れたかもしれぬが,将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様,自分勝手な,一方的な言葉ではない積りである。

今更何を言うか,と自分でも考えるが,ちょっぴり慾を言って見たい。

1.読みたい本

「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」

2.観たい画

ラファエル「聖母子像」、芳崖「悲母観音」

3.智恵子、会いたい,話したい,無性に。

今後は明るく朗らかに。自分も負けずに,朗らかに笑って征く。

昭20・4・12

智恵子様

                     利夫

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※参考文献 渡辺 洋二「彗星夜襲隊―特攻拒否の異色集団」(光人社NF文庫)、水口文乃著「知覧からの手紙」 (新潮文庫)等。

穴澤大尉と智恵子さんのエピソードについては、こちらにも詳しく書きました。合わせてご覧ください。