「軍隊は市民を守ってくれない」

軍隊が守るのは、特権階級であって市民ではないのです。 それは歴史が証明している。 「軍隊は市民を守ってくれない」

「軍隊は市民を守ってくれない」11歳の少年は〝地獄巡り〟を味わった 70年以上語らなかった沖縄戦、地上戦闘の凄惨 

8/14(月) 10:02配信

47NEWS

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沖縄戦の記憶を語る大城勇一さん=6月9日、沖縄県宜野湾市

 1945年4月1日、沖縄に米軍が上陸した。太平洋戦争中、日本で住民を巻き込んだ苛烈な地上戦となった沖縄戦の始まりだ。戦況の悪化に伴い、日本軍は住民に避難命令を出した。沖縄県宜野湾市の大城勇一さん(89)は当時、11歳の少年。両親ら家族は少しでも安全な場所を探し求めて南へ、南へと避難。しかし、行く先々で待っていたのは米軍の激しい攻撃と、住民や兵隊の多くの遺体。さらに、味方だと思っていた日本兵の「本当」の姿だった。逃げる途中では姉も亡くなった。大城さんは当時を振り返って「地獄巡りだった」と語った。(共同通信=榎本ライ) 【※この記事は、記者が音声でも解説しています。共同通信Podcast「きくリポ」を各種ポッドキャストアプリで検索いただくか、以下のリンクからお聞きください】 https://omny.fm/shows/news-2/11-70  ▽米軍が迫り、機関銃の弾が…。生きるため家族は徒歩で避難を続けた

 大城さん一家が当時住んでいた南風原村(現南風原町)照屋の近くは、日本軍の陣地が多かった。このため米軍の攻撃目標とされ、空襲で大半の部落が焼き払われた。  4月下旬、大城さんと両親、姉、祖母、いとこら9人は、父の友人がいる約6・5㌔南東の親慶原(現南城市玉城親慶原)に向かった。昼間はアメリカ軍の飛行機に発見される恐れがあるため、歩くのはもっぱら日が暮れた後。親慶原では自然洞窟に入れてもらい、約2週間を過ごした。  さらに、約1・5㌔南西にある旧玉城村富里(現南城市玉城富里)の岩穴へと避難。ところが、ある朝起きると、周囲の人たちの様子がおかしい。話を聞くと、「敵がすぐそこまで迫っている。ここは危ない」。  家族は大急ぎで荷物を集めた。ここでいとこや祖母らといったん別れ、約2㌔南東の「百名」で落ち合うことにし、出発。ところが、途中の「屋嘉部」にある高台にさしかかったところ、機関銃や小銃の弾が「ヒュー」と口笛のような音を立てて何発も飛んできた。危なくて前に進むことができない。仕方なく富里に戻った。後になって、別行動を取った祖母やいとこらが全滅したと知った。