

あの虹の橋を渡つて鎌倉へ行くことにしませう。今度虹がたつた時に……――――高浜虚子「虹」(1947年)
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日本海に面した福井県坂井市の三国(旧三国町)。江戸時代には北前船が寄港する北陸有数の港だった。
街並みは 九頭竜 川の東に帯状に広がる。対岸の丘から見渡し、往時のにぎわいを想像した。港町を見下ろすようにそびえるのは坂井市龍翔博物館。明治前期に建てられた洋風建築の小学校を模しており、当時の繁栄ぶりがしのばれる。
案内してくれた地域おこし団体「 三國會所 」の前理事長、大和 久米登 さん(68)は「三国では美しい虹がよく見られます。幼い頃、山の上の池から虹が出るのかなあ、なんて想像していました」とほほえんだ。
三国の虹をテーマにした小説を、俳句界で長く指導的な立場にあった高浜虚子が1947年に発表している。その3年あまり前、三国に若き弟子の森田愛子を訪ねたのが小説を書くきっかけとなった。
三国生まれの愛子は結核の転地療養で鎌倉に滞在した時、虚子の弟子でやはり結核治療中だった伊藤 柏翠 の仲立ちで、自分も虚子に師事する。愛子はその後、三国で柏翠と共に暮らすようになっていた。

小説「虹」の冒頭部分には、汽車で南へ旅を続ける虚子を、愛子と柏翠が約70キロ離れた敦賀まで送る場面がある。虚子は車窓から三国の方角に「極めて鮮明な虹」を見た。それを指し示すと、愛子は独り言のように「あの虹の橋を渡つて鎌倉へ行くことにしませう。今度虹がたつた時に……」と言った。
それからのち、虚子と愛子の間で美しくも切ない俳句のやりとりが始まる。
たとえば虚子は戦時中に疎開先の長野県小諸で虹を見て、〈虹たちて 忽 ち君の在る 如 し〉〈虹消えて忽ち君の無き如し〉などの句をはがきに書き、愛子へ送っている。虹を渡る彼女の幻影が現れ、消えるのを見たのだろうか。
46年に虚子は三国を訪れて病床の愛子を見舞う。小説「虹」の原稿を読んで聞かせ、「 繊細 い 躰 が一層痩せ衰へて」いるのに心を痛めた。
愛子は翌47年、29歳の若さで世を去る。その直前、虚子にこんな電報を送っていた。
〈ニジ キエテスデ ニナケレド アルゴ トシ アイコ〉
闘病中も句作に励んでいたという愛子。恩師の小説の中に、自身の生きた証しが残り続けることを喜んでいたのだろうか。
◇
高浜虚子 (たかはま・きょし)
1874~1959年。現在の松山市生まれ。本名・清。正岡子規に師事。1897年に子規の友人によって松山市で創刊された俳誌「ほとゝぎす」(後の「ホトトギス」)を翌年、東京に移し発行人となる。客観写生、 花鳥諷詠 を唱え、俳壇に絶大な影響力を持った。坂井市龍翔博物館3階の文学展示コーナーで高浜虚子と弟子の伊藤柏翠、森田愛子の資料を見ることができる。1階には同館のモデルとなった1879年(明治12年)完成の龍翔小学校に関する展示もある。
文・藤原善晴
写真・田中秀敏
俳人「愛子」生んだ港街
三国の古民家が集中するエリアに、「 三国湊 町家館」やミニ資料館「マチノクラ」がある。古い建物を改築した内部には、昔の写真や資料が展示され、観光案内の映像も見ることができる。
ここで元高校教諭の 張籠二三枝 さん(71)と待ち合わせた。張籠さんが最近出版した「愛子のいた町」(紫陽社)は、高浜虚子の小説「虹」とはまた違った視点で弟子の森田愛子とその暮らし、周辺の人物を描いた労作だ。
愛子は「すれ違う人がみんな振り返って見るほどの 美貌 だったそうです」という。
三国港といえば港湾のことだが、張籠さんは「港と街の全体を指す言葉が三国湊だ」とも説明してくれた。愛子の父親は、三国湊の豪商・森田三郎右衛門。銀行業(森田銀行)などの事業を手広く営んでいた。町家館の近くには旧森田銀行本店が保存公開されている。愛子と同じく俳句もたしなんでいた。
張籠さんに連れられ、この地区の古くからの商家の生まれで、「近藤古美術」を営む近藤克子さん(84)を訪ねた。
近藤さん宅の近くには、かつて愛子が住んでいた住居があったが完全に取り壊され、食品工場となっていた。それが廃業した後、2016年に同店が建物・敷地を購入したのだという。
愛子の没後、その場所では伊藤 柏翠 が「虹屋」という料亭を一時営んでいた。
それにちなみ、建物の一部に「虹屋スクエア」と名付けた展示施設を開設し、今年に入って予約制の喫茶室も作った。利用者は虚子、柏翠、愛子の俳句関係資料を見るコースか、北前船時代の貴重な 船箪笥 コレクションなども見学できるコースが選べる。
愛子が暮らした街の雰囲気と、最期まで日々眺めていたという川の景色が広がる三国湊。その故郷で「俳人・森田愛子」の再評価が進んでいるのがうれしい。
●ルート JR東京駅から福井駅まで東海道新幹線と特急を乗り継いで約3時間20分(北陸新幹線も利用可能)。同駅から三国駅までえちぜん鉄道で約50分。
●問い合わせ 三国湊町家館=(電)0776・82・8392、坂井市龍翔博物館=(電)0776・82・5666
[味]文人墨客に愛された銘菓
三国を代表する老舗・大和甘林堂((電)0776・82・0046)は江戸時代中期の1719年(享保4年)創業。14代目当主の大和 久米登 さんによれば、「北前船交易によって、当時貴重だった砂糖がいち早く入手できたから」だという。
その約50年後、銘菓「 鶯餅 」=写真=が誕生。三国祭で有名な三国神社の森で鳴く「鶯」から名付けられたといい、6個入り1100円。地元産の 糯米 を使った 求肥 で 餡 を包み、きな粉をまぶす。きな粉の香ばしさと柔らかい食感がたまらない。歴史ある港町に集まる文人墨客に愛されてきたエピソードは多い。店頭には〈春水に 沿い帯のごと 三国町〉という高浜虚子の句に、弟子の伊藤柏翠が〈うぐいす餅に 語る今昔〉と付けた連句が飾られているが、これは柏翠の直筆である。
ひとこと…無事だった街並み
昨年12月に三国を取材した後、隣の石川県で能登半島地震が発生した。2月中旬に三国を再訪する機会があり、街並みが無事であることを確認できた。古民家10棟ほどを改修した宿泊施設がオープンという新しい話も聞けた。16日に北陸新幹線が福井まで延伸する。多くの人が三国を訪れ、その魅力に触れてほしい。